Lisa---封印されたMacintosh前史

2013年5月14日 (火)

■画面の広いノートが欲しいんです

Windows上で動かさねばならないソフトができてしまって、表示画面の大きな(Windows)ノートパソコンを探している。もちろん、MacのノートにWindowsを入れても良いわけだが、しばらく使ってみてやはりメンドウクサイという印象は免れない。それは、WindowsというOS自体にも問題があって、システムに変更があると再認証が必要になるなど、私のような仕事の人間にはとても不向きな仕様がイヤだ。それがMacOSとセットで入っているという不自由さは、これから歳を重ねるにあたり、たぶん我慢できないレベルに達することが予想されるのだ(笑)。ひとつの表れとして、デスクトップのMacProに入っているWindowsも現在3度めの認証待ち状態(笑)となっている。メンドウなので、ついでに起動ドライブを替えようと思って、のびのびになっているからだ。

閑話休題。WindowsPCでは、ノートパソコンのディスプレイは、1366×768ドット程度が標準的。17インチくらいになれば、1600×900がある。また高性能版or地デジPCとして、15インチでも17でも、いわゆるフルHDの1920×1080ドットがある。以前の標準は、1920×1200(16:10)だったのだが、最近はTVが16:9になったのに合わせて横長になってしまった。これが実に腹立たしい。

「パソコンのディスプレイというのはTVを見るためにあるのでしょうか?」

と伺いたい。DVDやブルーレイを全画面表示で見るのに都合が良いというのを、第一の理由としてこれが決められているのだとしたら、映画なんか見ないパソコンユーザーは軽視されていることになる。こんな横長の画面、使いやすいですか? ちなみに、デスクトップPCを使っているなら、ディスプレイを縦に接続してごらんなさい。Webサイトの表示がまるごと画面に収まって、気持ちいいんですから。

ところが、Apple社の場合は、そういう事情は関係ない。そこらへんに落ちているパーツをつなぎあわせて製品を作っているメーカーとは違うのだ(笑)。そうはいっても、コストダウンは大切な要素だが。
Appleはパソコンのディスプレイの解像度を上げるのに熱心である。ちなみに、この「解像度」という言葉の意味には2種類ある。ひとつはデバイスの分解能、カタログ上に記載されている「ディスプレイ解像度」は「ディスプレイの表示エリアをいくつのドットに分解できるか」という意味である。もちろん、Macの「ディスプレイ解像度」もこれと同じ書き方をしている。けれど、Appleの設計者が気にしているのはもうひとつの、「一定の長さ(単位)をいくつに分解できるか」というほうの解像度だ。たとえば、「1インチをいくつのドットで表現できるか」はdpiという単位である。これは「密度」に近い。印刷で言う画像解像度と同じですな。
前者の意味の解像度が高くなると、一度に表示できるドットの数が増えるだけだが、後者の場合は、解像度が一定ならドットが増えるというのはサイズが大きくなることだし、大きさが一定なら解像度(たとえば1インチあたりのドット数)が高くなるということだ。つまり精細な表示が可能になる。本来のMacintoshの設計だと、この解像度は72dpi固定ということだった。だから、大きなディスプレイでないと、多くのドットを表示できなかった。今ではこの掟はだいぶ緩くなっていて、「ダイタイそんなカンジ」という程度のことになっている。

ディスプレイ解像度(ドット数)が多くなるのは「イッパイ表示できる」だけだが、もうひとつの密度的「解像度」が高くなるのは「より美しく表示できる」ことになる。つまり、画質が向上する。文字通り、数の増大が質の転換を促す、という見本のような事象である。って、デジタルですからね。

Appleがパソコンのディスプレイの解像度を上げようとしているのは、数が増えるのが当然進むべき方向だからではなく、現在のままではドキュメントを長時間大量に見ることに適さないからだ、と思う。紙に匹敵するとは言わないが、まーまー美しいと感じながら読むことができるディスプレイがパソコンに付いたら……。それがAppleの人たちが考えていることであって、映画を再生するために作ってるわけじゃない、と私は思いますけどね。
ちなみにAppleが作っているRetinaディスプレイは、ノーマルの縦横2倍で4倍のピクセル数を誇る。MacBook Proの場合、13インチのノートだと標準は1280×800ピクセルだが、Retinaディスプレイモデルだと2560×1600だ。ジツニウツクシー。
日本製のPCでは何故こうしたディスプレイが採用されない?と不思議に思っていたら、出ました。小さいものでは老舗の意地でしょうか、東芝のUltrabook「dynabook KIRA V832」が13.3型ワイド液晶で2560×1440ドットを搭載するのだという。と思ったら、今後Ultrabook系にはフルHDパネル(1920×1080)が搭載されると予想されているらしい。ま、この性能をどう活かすかが問題でしょうね。映画のブルーレイがキレイに見られる……なんて間の抜けた訴求はしないでほしいものですな。小さなサイズでむやみに解像度を上げれば、文字が小さくて細くて読みにくい……といった弊害が起きるはずだし。

※MacBook Proの画面の縦横のドット数から対角線を計算してみると、13インチと15インチの比率でいくと、旧来の17インチ(1920×1200)は本来20インチディスプレイのドット数ということになる。また、Airは2サイズあるが、MBPと別系統と考えても解像度が統一されているようには見えない。実際には、Appleといえど都合に合わせてあるわけだ。もっとも初期には、Macintoshのディスプレイは640×480(4:3)だったのだけど、いつのまにかMacは16:10になってるし。

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2012年8月 1日 (水)

■011.“メタファ”の時代じゃない?

Mac OS XがiOSの“ルック・アンド・フィール”を逆輸入することになるはずだという観測は少し前からあって、それはたぶん間違ってはいないだろうと思うのだが、画面と操作する人の距離や角度が異なることは明らかなので、まったく同じにするわけにはいかないはずだと思う。それに、iOSというのは指で操作するために考えられたシステムであって、私はデスクトップ上でDTPなどの操作を指で行う、なんてことは考えたくない。つまり、Mac OSでは表示の範囲が広く、精度の高い位置情報を伝えなくてはならないのだ。このためにはマウス&ボタンというのは、コストまで考えると、かなりよくできた装置だと思われる。タッチパッドを4倍のサイズにして、スイッチセンサーの精度や感度を上げても、マウスの操作性には及ばないし、コスト的にははるかに高価になってしまうはずだ。

iPadの良い点も悪い点も、ほとんどキーボードやマウスがないことに起因する。この結果、iPadは人から人へディスプレイの表示を移動させたり、ちょっとした操作によるエクスペリエンスを残したりするデバイスとして、ノートブック型のパーソナルコンピュータとは別ジャンルの製品となった。大きな問題点として、脂性の人が使うと画面がベタベタになる、ということはあるけど……。

「OS Xの問題は、コンセプトにある」、とかねがね思っていた。それぞれの機能を位置づけ統合するコンセプトが見えないのだ。デスクトップなどの用語はそのまま継承しているものの、ほとんど意味は継承されていない。デスクトップ・メタファが操作のし易さに貢献していたのかというと、そんなことはない。メタファは、操作の意味をわかりやすくするためにあったのだが、今はもうメタファが通じない時代になったのかもしれない。

ドコモのスマートフォンのTVコマーシャルを見たことがあるだろう。歌手や俳優がスマホの代わりに人間のカタチになって現れる。渡辺謙が登場する作品がいくつかあるが、どれも好きだ。これは、一種のメタファを使った表現であると言えるだろう。一方、ソフトバンクの白い犬は何だ(笑)? 何のメタファでもなければ、特別意味が込められているわけでもない。面白いだけなのである。ドコモのほうがはるかに知的であり、スマホの便利さや機能を伝えようと努力してる。でも、だからといってドコモのスマホがより沢山売れているわけではない。もちろん、TVCFだけ良くても商品や価格、サービスなどに問題があれば、販売が良くなるとは言えないわけだ。だが、どうも私には、このコマーシャル自体がそれほど受け入れられているようには思えないのだ。私は良いと思うし、好きなのだが、20歳代のユーザーには「何のことやら」と受け取られているのではないだろうか。あるいは、意味は理解していても「だから何?」「面白くない」と感じているのではないか。もちろん、すべて私の想像の内であり、推測にすぎないのだけど。深い意味で「流行らない」と表現しても良いかもしれない。
ひとつひとつの物事に意味なんかなくたっていい……そういう世の中になったんじゃないですかねぇ。

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2012年1月 8日 (日)

■010. GUIとデスクトップ・メタファ(その2)

コンピューターの中の操作が、すべて現実世界のメタファで表せるなら、GUIをデスクトップ・メタファで構築するのは簡単なことだっただろう。ところが、コンピューターの中の操作は、現実世界にはない種類のものがあるし、メタファで表せたとしても回りくどいのでそうしたくない操作もあるだろう。それで、実際のGUIでは、メタファで表され、グラフィカルに操作できる事象は思ったほど多くない。このあたりのメタファ度は、OS Xになってどんどん低下しているように思われる。だいたい、デスクトップだと言ってるのに“アクア”なんてデザインで水浸しにしちゃうのは、おかしな話ということになる。おまけに、iOSの操作感を取り入れて、共通のイメージを持たせようとしている。

Lisa_br_2s

iOSはもともと内部技術的にはOS Xから派生したものだが、UIの面では別物となっていた。それが、OS X Lionでは、マルチタッチジェスチャーやLaunchpadなど、iOSユーザーに親和性の高い操作感を持ち込もうとしているのがミエミエだ。デスクトップがズームアウトしてMission Controlが現れるなどというのは、いったいどう説明したらいいのだろう。デスクトップ・メタファの考え方から見たら、ドラッグ体験みたいな機能じゃないですか?
だから、いっそのことデスクトップはやめた方がいいのではないかと思う。Windowsもあいかわらずデスクトップと称しているようだから、早くやめた方が勝ち(笑)かもしれない。「ゴミ箱にドラッグ」なんて操作、いくらでも別のを考えればいいのだから。中途半端なデスクトップなら要らない。
Lisaの最初のカタログの表紙には、「Lisa. It works the way you do.」と書いてあった(画像参照)。デスクトップ・メタファの本来の考え方、あり方というのは、そういうものだと思う。だからといって、Lisaのデスクトップに戻れと言うつもりはない。けれど、学ぶべき点はまだ沢山あるように思えるのだ。

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2012年1月 7日 (土)

■009. Lisaをエミュレーターで動かす

LisaのUIについていろいろ述べようと思うが、このブログを読んで試してみようと思い立ったところで、身近にLisaがあるとは思えない。実際には、わずかながらも流通はしているようなので、お金に糸目をつけなければ、意外に状態の良いLisaが入手出来るかも知れない(笑)。しかし、そんな奇特な方は少ないだろうし、事前に動作を確かめてみた方がいいだろう。そんなアナタにピッタリなのが、Lisaエミュレーターだ。
エミュレーターというのは、あるハードウェアを他のもので一時的に代用するためのものだ。
Lisaのエミュレーターには、有名なものが2つある。

(1)Lisa Emulator Project(LisaEM)
(2)Idle

どちらかといえば(1)が本格的、(2)がお手軽な路線。なにせ(2)は、最小限のエミュレーターであって、"Incomplete Draft of a Lisa Emulator"の頭文字をとったものということである。“不完全だけど何か?”という開き直った名称なのだ。ちなみに、OS X上でも動くようだが、私はWindows XP上で動作させることにした。
最初(1)を試したのだがうまく動かず、(2)に乗り換えた。だが、ある程度進んで、プロファイルにLisa Office Systemをインストールするところまでは行くのだが、プロファイルから起動しない。たぶん、まだプロファイルの設定か何か足りないのかも知れない。それで、(1)に戻った。(2)を動かそうとする過程で得た知識が役にたって、無事アプリケーションを起動するところまでたどり着くことができた。
Lisaのエミュレーターを動かす場合に、役立ちそうなTipsをメモしておこう。

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・エミュレーターには、ブートROM、LOS(Lisa Office System)、LisaWriteなどの統合ソフトは入ってない。これらは、他のサイトのアーカイブを探してみよう。これが自力で見つからないくらいのレベルだと、たぶん入手してもエミュレータを起動することはできないだろう。

・(1)はブートROMなしでも起動できるが、(2)はHバージョンのROM(ファイル)が必要。(2)の場合は、エミュレータのバイナリ解凍後出来るbootフォルダに入手したファイルを入れる。このとき、ファイル名に注意。エミュレーター側が要求する名前にリネームする必要がある。私が入手したのは「boot.hi」だったので「booth.hi」にリネームした(もう一つも同様に)。

・LOSや統合ソフトのアーカイブは二重に圧縮がかかっている(Windows上では)。拡張子“.archive.hqx”ファイルはStuffIt Expanderで解凍できる。解凍してできる“.archive”ファイルは、実は中身は“.cpt”ファイルなのだが、これを解凍するソフトが見つからなかった。結局、「Noah」というフリーウェアで解凍することができた。解凍後のファイルはどれも410KBであり、これが最終的に使用可能なDiskCopy 4.2形式のディスクイメージということである。拡張子は、特に設定する必要はないようだ。

Idle_scr_1s


・オリジナルLisaのスクリーンは、ピクセルが正方形ではなく(720 × 364)、そのまま現代のPC画面に表示させると、かなり横長で扁平な表示となる。(2)はそのまま表示するだけだが、(1)はさまざまな表示の仕方が用意されている。標準のオリジナルCRT風の場合、縦方向に拡大しているので、逆に不自然な見え方をする。どれも一長一短あり?

・FDイメージを用意しているわけだが、これをドライブに入れるためには、(1)の場合ならLisaEMのメニューから「Insert Diskette」、(2)の場合なら右クリックで現れるメニューで「Disk image DC 42」を選んで、ファイルリストからディスクイメージのファイル名を選ぶようにする。

オリジナルよりもクロック数を上げて動かすようにすると、なかなか快適に動作する。

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2012年1月 2日 (月)

■008. GUIとデスクトップ・メタファ

最新のMacのOS X Lionも、Windows 7も起動すると現れる空間のことを“いまだに”「デスクトップ」と呼んでいる。最近のユーザーは聞いたことがないかもしれないが、これは「デスクトップ・メタファ(desktop metaphor)」に由来する。コンピュータを操作するための方法として、グラフィカル・ユーザー・インターフェース (GUI)は、「マウスと画面上に表示されるアイコンを使って操作する」といわれているが、それはGUIの構成要素に過ぎない。GUIが使いやすいかどうかは、それがどのようなコンセプトに基づいて構築されているかが問題になる。
初期のGUIでは、これから数多く使われるであろうビジネスや教育など、おもに机の上で行われるはずだった仕事がパソコン内で(置き換えて)実行されるであろうと考えて、実際の机を模した環境をスクリーンの中に創り出したのである。それが「デスクトップ・メタファ」である。メタファとは、“隠喩・暗喩”と訳されるが、あまり馴染みがない言葉なので、“比喩”(たとえ)みたいなものと考えても良いだろう。

これに関しては、約20年ほど前に私がアップル社のために制作した「Macintoshセールスガイド②」に次のような記述がある(一部表記を修正)。

***

GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の本当の意味は、ただ「グラフィックスを使って操作を分かりやすくする」というだけのものではありません。MacintoshのGUIは、その母Lisaのデスクトップにその原型を見ることができますが、それは次のような特徴を持っています。

(1)日常的なオフィス環境を連想させることで操作を分かりやすくする
(2)操作の対象となるものをパターンで認識し操作できる

 (1)の特徴は、画面ですぐに確認することができます。たとえば、いろいろなプログラムで作成されるデータは、ディスクに書き込まれると「ファイル」と呼ばれ用紙の形をしたグラフィック(アイコンといいます)で表示されます。そして、それらをひとまとめにしたものはMS-DOSのように「ディレクトリ」ではなく、「フォルダ」と呼ばれ、ファイルフォルダのアイコンで表示されます。そして、ファイルの削除はdeleteコマンドではなく、ファイルのアイコンを「ごみ箱」のアイコンまで引っ張ってゆくことで実行されます。
 これは、「そうしたほうが面白いから」そう作られているのではなく、「そうしたほうが分かりやすいから」そうなっていることに注意してください。
 つまり、日常のオフィス環境に近いものをスクリーンの中に構築することで、操作を身近なものとしているわけです。
 また、(2)の特徴は、いままでのコンピュータ操作の特徴であった「キーボードを使った文字による命令の実行」(*1)を、「マウスで画面上のモノをクリックする事によって命令を実行」するようにしたということです。これには、コマンドを覚えなくていい、キー入力しなくて済む、などのメリットの他に、パターンによる操作が可能になる、という重要な意味があります。

Desktopmetaphor

 たとえば、実際のオフィスにあっては、「社員名簿」というファイルフォルダをキャビネットから取り出す場合に、実際にその背表紙の名称を読まなくても、「左から何番目のフォルダ」とか、「他のファイルフォルダとは違ったちょっと大きな布製のフォルダ」といった情報によって選択している場合が多いのです。また、ナンバープレートで番号を確認しないと自分の車がわからないという人はおそらくいないでしょう。同型の車は沢山走っているのに、です。
 このように、ひとは普段文字や数字よりも、「なんとなくこんなかたち、こんな色のモノ」というパターンで認識している場合が多いものなのです。パソコンでの仕事もこうした方法であれば、実際の仕事に近い、自然な流れで操作できるのです。多少、マウスボタンを押す位置がズレたって構わないのです。
 これは、いうなれば「右脳的なパソコン操作」と呼ぶこともできるでしょう。キーボード操作のような理論的で記憶に頼らなければならない「左脳的な操作」に比べて、はるかに人間的でやさしい、ということができます。
<中略>
 また、1つ操作パターンを覚えると、あとは大体操作が類推できるようになっています。これは、文字による命令実行型の操作系では考えられない特徴です。

(*1)キャラクタ・ユーザー・インタフェース(CUI)と呼ばれることがある


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2011年12月24日 (土)

■007.MEMEXの遺伝子

パーソナル・コンピュータの歴史を紐解いてみると、意外な事実が沢山明らかになる。ふつう、パーソナル・コンピュータのようなものは、いろんな会社がさまざまな研究開発をした結果、ほとんど偶然に各社の技術が寄せ集まってできあがったものと考えてしまうのではないか? ワタシもなんとなく、そう考えてきたふしがある。歴史に分け入って発見する意外な事実の最初のものは、これが間違いであるということで、二番目は「パーソナル・コンピューターはまだ発明されていない」ということだ(笑)。
言い換えると、今のパーソナル・コンピュータ(と呼ばれているもの)とその利用形態というのは、ずいぶん昔に一握りの人間が描いた予想図に向かって突き進んできたのである。それは、1945年の「MEMEX」であり、1973年の「ダイナブック」(Alto)だった。そして、その遺伝子を受け継ぐ直系の子孫がLisaであり、iPadなのである。
MEMEXは、ヴァネヴァー・ブッシュが1945年に発表した"As We May Think" という論文の中に出てくる「記憶拡張装置」で、コンピュータを使ったシステムの一種である。ブッシュは、マイクロフィルム化した情報を電子的に制御し、“参照をたどる”という、その後のハイパー・テキストにも通じるしくみを考えた。現在の、インターネット&WWWが生まれる元となったと言われている。

http://www.youtube.com/watch?v=c539cK58ees

このブッシュのイメージに触発されて研究をスタートさせたのが、ダグラス・エンゲルバートだった。エンゲルバートはスタンフォード研究所時代に、すでにマウスやビットマップグラフィックスなど、後のユーザーインターフェースに必須の技術をいくつか考え出していた。エンゲルバートの発想の原点は「MEMEX」だった。
ゼロックスのパロアルト研究所では、エンゲルバート等の研究をさらに発展させたいくいつもの重要な技術が開発された。これをここでは「PARCテクノロジー」と呼ぶことにしたいと思う。PARCテクノロジーとは、マウスとマルチウィンドウにアイコンを使った、WYSIWYGを実現するグラフィカルユーザインタフェース (GUI)、イーサネットなどなどである。後には、PostScriptの元となるページ記述言語のようなものや、レーザープリンターなども開発された。DTPの種子となる研究である。PARCの研究者だったアラン・ケイは、エンゲルバート同様「MEMEX」に刺激を受けていた。ケイはダイナブック構想を思い立ち、それを身近な技術で具現化しようとした。それが、“暫定ダイナブック”と呼ばれた「Alto」である。Altoは当時としては革命的なマシンだったが、アラン・ケイにとっては、“まだまだ出来てないマシン”だったのである。ケイのダイナブック構想を本格的に実現するには、もう少し技術の進歩を待たなくてはならなかった。
Lisaは、この「Alto」を見たジョブズとアップルの技術者たち、そして後にPARCからアップル社に移ってきた研究者によって、その遺伝子を埋め込まれた。
彼等は、不思議なことに誰も、機械として高性能なコンピュータを完成させよう、とは思っていなかった。どれも、ハードウェアとソフトウェアは密接に結びつき補完し合っている。人間の側にコンピュータ引き寄せようとしてきた。人間の能力を拡張するためのコンピュータは、そうでなければならなかった。
ただし、ケイのダイナブック構想では、システム自体をユーザーが再定義できる柔軟性や可塑性を持ち合わせていること、となっている。この機能を実現したパーソナルコンピュータはまだない。その意味ではケイのパーソナルコンピュータは、まだ完成していないことになる。
ジョブズは、有名なスタンフォード大学におけるスピーチの中で、「アップル社を辞したときに、前の世代から渡されたバトンを落としてしまった(コンピューターの歴史を中断させてしまった)のではないかと恐れた」と述べている。彼の言う「渡されたバトン」とは、IBMやDECが創ってきたハードウェアの歴史を指していたのだろうか? たぶん、そうではない。そしてそのバトンは、まだアップルが持っているのである。少なくとも、あとちょっとの間だけは。

■初代Macintoshを見たアラン・ケイの感想。
「ガソリンタンクが極小のホンダ(すぐにガス欠になって遠出できない二輪車)。ただ、評価に値する最初のパーソナル・コンピュータ」
■iPhoneを見たアラン・ケイの感想。
「画面を5×8インチにしたら、世界を支配できる」
■iPad を見たアラン・ケイの感想。
iPad自身でプログラムは作れないから、パーソナルコンピュータとしては低評価だけど、ユーザーインターフェースは最高。ヤラレタ!

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2011年12月16日 (金)

■006.HP技術者の意地ですか

昔書いたLisa本の原稿は、デジタル化が完了したので、カンタンにレイアウトしてみた。やはり、ある程度デザインされていた方が読みやすい。そのページをチェックしていて思い出したことがある。Lisaにもちゃんと電卓機能があるのだが、驚いたことに「逆ポーランド方式(Reverse Polish Notation=RPN)」をサポートしているのだ。
最も、驚くには当たらないのかも知れない。なぜなら、関数電卓と言えばHPという時代があり、一家に一台は必ずHPの関数電卓を持っているという時代があった(ウソ)。このHPの関数電卓というのが、RPNだったのである。その後プログラマブル電卓というのが流行し、マイコン、パソコン時代に突入するのである……。

Calcuator

で、Lisaを開発していたチームには、HPから引っこ抜いた技術者が沢山いたわけだから、電卓機能を組み込むときに、当然この使い慣れたRPNを考えたのだろう。それで、Lisaの電卓は、通常の四則演算モード、加算モード、逆ポーランド方式演算モードの3つのモードを持つことになった。
逆ポーランド方式は、カッコやルートなどが複雑で通常の電卓では計算できない式もスンナリ入力できるので、一度使うともう止められない……というコアなファンが今でも沢山いるのだという。
領収証の合計を計算するときなどは、加算モードも便利かも知れない。
現実にはなくても、コンピュータならではの便利な多機能電卓がもっと考えられてもいいような気がする。ユニーク機能つき電卓というのはあまり聞かないが、電卓を使う作業自体が少なくなっているからなのだろうか?

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2011年12月11日 (日)

■005.どこかHPっぽくない?

ジョブズは開発の途中からノリノリでLisaプロジェクトを率いていたが、その後プロジェクト・リーダーから外されている。つまり、ジョブズにとってLisaは、ココロザシ半ばで追い出された憎きプロジェクトという位置付けなのである。そして、Lisaというのは彼の娘の名前だが、その娘は長い間認知するのを拒み続け、養育費も支払わなかったという……。愛娘とはほど遠いじゃない(笑)。嫌々渋々認知してるじゃない(笑)。

Apple IIの大成功の後、アップル社は大きな需要が見込まれるビジネス用途に対応したパソコンの開発に取りかかった。完成したのがApple IIIである。1980年に発表され、1984年には販売終了となっている。一方、Lisaは1983年に発売、オフィス向けのパーソナル・コンピュータという位置付けだったが、Apple IIに比べて1桁違う価格とまったく異なるマーケットへの販売というのが大きな足かせとなった。
Apple IIIはジョブズ主導で進めたプロジェクトだから、その失敗が明らかとなった時点で、Lisaプロジェクトからも追放されたのである。開発チームからも「仕事がやりにくい」と苦情が出ていたせいもある。したがって、Lisaは100%ジョブズの意図を反映したプロダクトだとは言えないことになる。ジョブズが外れたときに、プロジェクトがどこまで進んでいたのかはわからないが、発売されたのは外れてから2年3ヶ月後だから、ずいぶんと違った路線になっていたと考えるのが普通だろう。

最初にLisaのパッケージを開けて操作したときに、妙に「HP臭いナー」と感じた記憶があるのだが、ジョブズの後を継いだプロジェクト・リーダーは、HP出身のジョン・カウチだったのだから、当然と言えば当然か。誤解の無いように言えば、当時のHPは研究者向けのハイクラスな製品を発売しており、価格も高くセンスも良い製品を作る一流企業、という印象だった。もともと、もう一人のスティーブ(ウォズ)はHPの社員だったし、創業からしばらくの間、アップル社とHPの関係は浅からぬモノがあったようだ。Apple IIのケースとキーボードの色のセンスも、何に近いと言われればHPの製品に一番近いと思う。Lisaの全体のフォルムも、ハンドルつきのHP計測器のフォルムにどこか似ている。Lisaの狙いはオフィスだったのだから、カウンター・カルチャの香りは必要ないのは確かなことだったが……。

Lisa_pins
さきほど大掃除で発見したLisaのピンズ。こんなものをつくる“余裕”があったのは、発売直後の製品の売れ行きが判明する前のこと。たぶん、サードパーティ製ということはないと思う。

ちなみに、「LisaはダメだったけどMacintoshは大成功!」というイメージを持っている方が多いと思うが、好調だったのは発売直後だけで、その後しばらくは低迷し、需要予測を誤った大量在庫などを理由にジョブズがApple社を追い出される理由の一つとなるのである。
Apple IIは大成功を収めたが、これはジョブズが作ったモノではない。開発したのはスティーブ・ウォズニァックであり、ジョブズは製品化の段階でケースのデザインを決めたり、販売を拡大するのに力を発揮した。つまり、功績は間違いなく有ったわけだが、製品の開発という面ではジョブズの意向はあまり反映されていない。ジョブズの“その後の作品”を考えると、Apple IIの拡張性が高くオープンな設計思想にジョブズの影を見ることはできない。“その後の作品”とは、初代のMacintosh 128K、iMac、iPhone、iPadなどである。では、Lisaはどうか? Macintoshと比較して、どちらがクローズドだと思います?

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2011年12月10日 (土)

■004.可愛さ余って憎さ百倍?

もともと、私は人の発言をあまり重視していない。本人が語ったとしても、本当のこととは限らない。それよりも、何時どのようなことをしたか、どんなモノを作ったか、で考えたい。本ブログのカテゴリー「Padにとって美とは何か?」では、iPadという製品を通してジョブズの美学やITテクノロジーの行く末について考えようと思っているし、この「Lisa---封印されたMacintosh前史」では、当時のPARCテクノロジー(ひとくくりにするにはこんな名称が適当かと)とLisaとMacintosh GUIの関係、そしてスマホ~タブレット系のUIなどについて、Lisaという製品を通して考えてみたいと思っている。

Lisa関連でいうと、公式伝記本からの収穫はそれほど多くなかった。だいたい、どの著者も失敗作について長々と語ろうとは思わないモノらしい(笑)。Lisaの謎の一つである、Apple社内での開発経緯も判然としない。Lisaの開発指揮からジョブズが外された後、だれが最後までLisaのコンセプトをまとめ上げたのかというと、それはジョン・カウチということになっている。カウチは、HP上がりのプロジェクト・リーダーで初めからLisa開発の指揮をとっていた。ジョブズは途中から割り込んでPARCテクノロジーをLisaプロジェクトに詰め込んだわけである。ジョブズの後任は再度カウチということになっているのだが、彼にそれは可能だったのか? もし、そうだとするなら、Lisaはもともと開発コードネームだったという話だから、別な製品名にする余地もあったのではないか。フロッピィドライブだって、自社製の出来が悪ければ外部メーカーのものを使う選択もあったはずだ。
私が考えているのは、こういうことだ。ジョブズが外されたと言っても、まだ社内にいたわけである。何も口を出さなかったとは思えないではないか? カウチは「ジョブズに口を出さないように」と釘を刺したと言われているが、それはつまり「口を出していた」ということではないのか? 100%ジョブズの思い通りにはできなかったが、隠然たる影響力はあったのではないか? ……と考えるのである。どうもジョブズの意向に配慮したのではないかと思われる形跡がいくつかあるのだ。
ジョブズはLisaについて、「格好が悪い」とか「タイトルバーのデザインがキライ」というようなコメントを残しているが、「出来の悪いクソみたいなパソコンだ」とは言ってない。私は、これまで言われてきたよりもずっと、Lisaは“ジョブズの作品”だったし、高く評価していたはずだと思う。Lisaは83年の始めに発表される。ともかく、あの時代に発売に漕ぎ着けただけでも信じられないくらいの内容だ。

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Lisaチームを追い出されたジョブズは、81年初頭にMacintoshチームを乗っ取り、その2年後の83年11月には(すでに発売されていた)Lisaも合わせて統括するようになる。LisaとMacintoshという2つの開発チームを統合した後、Lisaチームは冷遇される。ジョブズはLisaをバッサリ切り捨ててしまうのである。それは2つの製品、2つのチームは不要ということであって、Lisaがダメということではなかった、と思うのだが……。

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2011年12月 8日 (木)

■003.伝記本は読んだ。

アイザックソンの“公式伝記本”「スティーブ・ジョブズ」への批判が(専門家の間では)相次いでいるのだという(詳細は、Macテクノロジー研究所)。たしかに、あれだけの素材で、本人および関係者に直接取材できる特権を与えられながら、「この程度か」という印象は拭えない。当時のことはおろか、パソコンとその周辺の技術的な問題にも詳しくないことは明らかだ。「ジョブズが“わざと”そのような人選をした」という説も、ありそうな話だと思う。

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淡々と冷静な語り口なのは美点と解釈もできるが、読んでいてちっとも面白くないし、なにより聞き書き以上の領域に踏み込んでいないのだ。伝記として、本人の足跡を本人の証言によって残す、という第一義的なミッションしか達成していないように思えるのだ。スティーブ・ジョブズとは何者で、その人生にはどんな意味があったのか? その結論は、読者に任されている。かといって、それが著者の意図だというわけでもなく、たんに著者にはそこまでイメージをまとめ上げることができなかった結果、と考えるしかないところが、読後のフラストレーションの理由だろう。ジョブズの仕事について評価するなら、技術的な理解がもう少し必要だろうし、人間を浮き彫りにするなら、もっと関係者の証言にページを割いて、掘り下げるべきだろう。たとえば、彼の行動原理を解明する一つの鍵として、「禅」がある。一時は、会社(アップル)を止めて、日本に修行に渡ろうかと悩んだこともあるというのに、ジョブズが師の下で何をしたのかという記述はないし、禅から何を得たということも、どういう種類の影響があったということも詳しくは触れられていないのだ。これでは、IT関連だけではなく、精神世界や心理学のことにも疎いのね、と思われても仕方がない。ジョブズの語った回想が表面的に収録されているに過ぎない、と言われても仕方がない。とはいえ、“公式”なのだから、細かい点で疑問は沢山あるが、読んでおかないわけにはいかないだろう。

“公式伝記本”に続いて、高木利弘氏の書いた「ジョブズ伝説」も読んだ。さすがにこちらは、長年Macintosh専門の雑誌編集長を務められただけあって、ジョブズの行動の評価が時間と業界の動きの中で位置づけられているので、読んでいても腑に落ちる。だが問題は、「終章」に書かれた、ジョブズをどう評価し、そこから何を学ぶかという部分だろう。 現時点での私の考えもあるけれど、それはもう少し研究が進んでからこのブログに書いていこうと思う。興味のある方は、本書、ならびにMacテクノロジー研究所に掲載のインタビューをお読み頂くことをお勧めしておく。


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